ちやっきりぶし誕生秘話

ちやっきりぶし

狐ケ崎遊園の開園を記念して作られた新民謡

いまでは静岡県の民謡としてし親しまれている「ちやっきりぶし」は、昭和2年、静岡鉄道(当時、静岡電気鉄道)が狐ケ崎遊園の開園を記念し、沿線の観光と物産を広く紹介するために、北原白秋に依頼して作詞された珠玉の名篇です。作曲は町田嘉章による軽妙芳香なメロディを得て、全国の人たちに愛唱されるようになり、郷土静岡の観光と名物・特産品のアピールに少なからぬ貢献をしてきました。

「ちやっきりぶし」は、いまや私たち郷土の無形の宝であり、これからも永く歌い伝えていきたい尊い一曲です。ここにその由来とこれまでの過程をご紹介いたします。

白秋をねばりでくどき落とした長谷川貞一郎

白秋の生家(九州柳川) 北原白秋は明治18年(1885)福岡県山門郡沖端村(現在の柳川)の酒造業「油屋」に生まれた。本名隆吉。同42年には処女詩集「邪宗門」を、その2年後には柳川で過ごした幼少時代をしのぶ「思ひ出」を出版して、詩壇にデビュー。

昭和元年(1926)には、すでに押しも押されもせぬ詩文学の重鎮として、童謡集の「二重虹」「からたちの花」「象の子」、さらにまた随筆集「風景は動く」や詩誌「近代風景」の発刊など、幅広く積極的な活動を続けていた。

その当時、東京・谷中にあった白秋宅へ、ある日ひとりの男が訪ねた。取り次ぎの者に手渡した名刺には、静岡電鉄遊園部長・長谷川貞一郎(以下、長谷川)とあり、用件というのは「静岡から清水への沿線に、新しく狐ケ崎遊園がオープンすることになったので、その完成記念に白秋先生にぜひ唄をつくっていただきたい」とのことだった。しかし白秋は、取り次ぎの者を通して「私は民謡をつくったことがないから」と、面会を断った。要するに、門前ばらいをしたのである。そして長谷川は、その後も数回にわたって白秋宅を訪れたが、そのたびに同じ理由で用件も面会も断られたという。

しかし、それから半年の後たまたま政宗白鳥と親しいある友人の彫刻家と巡り合い、長谷川はさっそく白鳥から白秋への紹介状を書いてもらい、それを持って大森近くの緑ヶ丘に引っ越したばかりの白秋を訪ねたところ、今度はようやく会ってくれた。だが、肝心の用件については相変わらず許諾してくれない。

はたして何時間ねばったのだろうか。地域開発と発展のために一私鉄である静岡電鉄が、社運をかけて遊園施設の建設に踏み切ったこと、園内には料亭兼旅館(翠紅園)があり、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々にも広く利用されるよう願っていること、したがって、その利用客や入園者にも愛唱され、親しまれる唄が、どうしても必要なこと、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうこと、など長谷川はじっくりと熱意をこめて説明した。その結果、白秋もついに長谷川の熱意に感動し、唄をつくることを快諾したばかりか、今までの非礼を詫び、励ましの言葉さえかけてくれたのだった。

このときの長谷川のねばり強さには、白秋も大いに心を動かされたらしく、後日部長に、「目の尻の線の動きやもずの声」の一句を贈っている。

巷に浮かれ、人知れぬ詩想の努力を

こうして昭和2年のある日作詞の取材のため白秋は静岡市を訪れた。なにしろ当代一の詩人の大先生が来るとあって、これをお迎えする静岡電鉄の張り切りかたは並大抵ではなかったらしい。専務の熊沢自身が陣頭指揮をして、接待にあたる芸者を指名して検番に集めさせたうえ、「よい唄ができるかどうかは、みんなの腕次第で決まるのだ。できる限りの大サービスに努めよ」とハッパをかけるなど、まさに金に糸目をつけぬ歓迎準備をととのえた。

静岡駅前にあった大東館(左側) これに対して"熱烈歓迎"を受けた白秋先生のほうもさるもの。当時、静岡駅前にあった大東館にひとまず落ち着いたあと、浮月楼で盛大な歓迎の宴にのぞみ、続いて会社側の案内であちこちと飲み歩きながら想を練り、宿も自分の気に入った新求亭へと移した。

また、遊廓のある二丁目にまで足をのばして痛飲、その酒豪ぶりには周囲の人々も舌を巻いたそうである。

だが、その実、白秋としては酒を飲み巷に浮かれながらさまざまな階層の人々に接することによって、少しでも静岡独特の人情風俗にふれ、詩想と結びつく言葉や、話題、特にお茶についての知識を得ようと、人知れぬ努力をしていたのであろう。そんな詩人の心を周囲の人々は全く知るよしもなかった。

土地っ子芸妓のつぶやきが囃子詞(はやしことば)

白秋が遊んだ蓬苹楼 酒浸りの幾日かが続いたある日のこと、田んぼに囲まれた遊廓街の一角、蓬苹楼で日暮れどきから杯を重ねていた白秋は、土地っ子芸妓の〆吉が二階の障子を開けながら、だれに言うとなくつぶやいた言葉に、思わず耳を傾けた。「きやァるがなくんて、雨づらよ」なるほど安倍川の土手まで広がる一面の田んぼからは、わきあがるようなカエルの大合唱が聞こえてくる。そのなき声を聞いて〆吉は、土地っ子まるだしの方言で(こんなにカエルがなくのだから、たぶんあしたは雨になるのでしょう)とつぶやいたのである。「おい、僕の宿からすぐ鞄を取ってきてくれ」と、白秋は鞄の届くのを待って、原稿用紙にサラサラと太い万年筆を走らせた。これが民謡『ちやっきりぶし』の各章にくり返し使われる、いわゆる”囃子詞”になったのである。

きやァるがなくんて…に歌詞を改め

白秋は当初、原作に「きやァるが啼くから…」と書いたというが、のちに地元静岡出身の作家、長田恒雄から、「方言では『なくんて…』と言いますよ」と言われて、そのとおりに改めた、というエピソードもある。いずれにしてもこの"囃子詞"を決めたことによって、名作『ちやっきりぶし』の作詞に大きなはずみがつき、民謡に欠かせない強烈なローカルカラーが実にほほえましい表現で盛り込まれたのは確かだ。何げなくそのひとことをつぶやいた〆吉姐さんの功績、まことに絶大というほかはない。

作曲は町田嘉章

とにかくこうして待望の民謡がつくられたわけだが、白秋が静岡市を訪れた際、東海道線の車内でばったり乗り合わせたのが、なんと邦楽作曲家の町田嘉章だった。同氏は尺八家の中尾都山、田辺尚雄らと共に九州へ演奏旅行の途中であった。

そのとき白秋は、「いま静岡電鉄に頼まれて、民謡をつくるために静岡市へ行くんだがそれが出来たら君に作曲を頼もうかなあ」と言い、嘉章も「ぜひよろしくお願いします」と言って別れた。

やがてその年、白秋の奥さんが嘉章宅を訪れ、「主人から預かって参りましたが、これをよろしくと申しておりました」と、差し出したのが『狐音頭』と『ちやっきりぶし』の歌詞だった。それから間もなく、静岡電鉄の長谷川からも正式に作曲の依頼があって、その年の秋には2曲とも作曲が出来上がり、嘉章は静岡市へおもむき、芸者衆に唄の指導をした。

NHKから全国放送

NHKラジオで「ちやっきりぶし」を歌った芸者衆 『ちやっきりぶし』は、昭和3年1月25日、NHK愛宕山放送局からラジオの電波に乗って全国放送されたものの、そのころはまだ静岡・清水の料亭のお座敷を中心に、花柳徳太郎振り付けによる踊りと合わせて歌われている程度でそれほど広く歌われはしなかった。それは他の民謡とちがって『ちやっきりぶし』が手拍子では歌いづらく、三味線で聞く調子の唄だったせいかもしれない。ただ、たまたま東京の赤坂や新橋には、"静岡芸者"が多かったし、特に吉原あたりになると花柳門下が多かったので、お座敷唄としてはかなり歌われていたようだ。

市丸の歌と静岡国体で全国に名声広がる

市丸さん それが全国的に大流行するようになったきっかけは、やはり戦後、市丸がレコードに吹き込んで以来のこと。昭和32年には国体が静岡で開催され、その開催式で静岡婦人団体が披露した『ちやっきりぶし』の踊りと唄は、全国各地から集まった役員や選手団に強い印象と感動を巻き起こした。そして昭和36年には週刊誌(週間サンケイ)の全国民謡人気コンクールにおいて、断然トップの栄冠を獲得。民謡『ちやっきりぶし』の名声は、いまや天下にとどろき渡ったのである。

静岡国体での「ちゃっくりぶし」 後年、あの白秋をくどきおとした長谷川が町田嘉章に、「実は先生のお宅で初めて『ちやっきりぶし』を聞かしていただいたとき、期待はずれでガックリしましてね。」と語って大笑いしたそうだ。

40周年記念に日本平山頂に民謡碑建立

『ちやっきりぶし』誕生40周年にあたる昭和41年には、富士山と茶畑を望む名勝日本平山頂、日本平パークセンターの屋上に「ちやっきりぶし民謡碑」が建てられた。また昭和52年には同パークセンターで盛大な50周年記念式典が催され、町田嘉章、白秋の長男隆太郎をはじめ、関係者が一堂に集まり、名作民謡の人気を喜び合い、この年ロサンゼルス市の二世週日本祭に招かれ、初めて海を渡った『ちやっきりぶし』の唄と踊りが大好評を博し、日米親善にも一役かった。

しかし白秋はこの唄が広く歌われるようになる前、昭和17年11月2日、57歳で輝かしい生涯を閉じ、多摩墓地に永眠している。

平成ちやっきりぶしが静岡まつりで披露

平成8年4月、装いも新たに行われた静岡まつりの「夜桜乱舞」の中で、現代風に編曲された「平成ちやっきりぶし」が披露された。

狐ケ崎遊園の開園を記念して作られた『ちやっきりぶし』は、新民謡として誕生し、今や全国区の民謡として歌い継がれているのである。

プロフィール

北原白秋

北原白秋

明治18年(1885)~昭和17年(1942)。詩人、童謡作家、歌人。福岡県柳川市出身。早稲田大学英文科予科中退。中学時代から雑誌「文庫」に短歌を投書し、この頃から「北原白秋」を名乗る(本名:北原隆吉・きたはらりゅうきち)。24才で第一詩集「邪宗門」を刊行。その後、第二詩集「思ひ出」、処女歌集「桐の花」など多数刊行。詩歌各分野で幅広く活躍し詩歌壇の第一人者となる。また、児童誌「赤い鳥」で童謡部門を担当し千編におよぶ童謡を発表し、山田耕筰、中山晋平など音楽家たちが曲をつけ、今日まで愛唱され続けているものも多い。また、民謡や校歌の作詞も数多く手がけ愛唱されている。57才で逝去。

町田嘉章

町田嘉章

明治21年(1888)~昭和56年(1981)。邦楽作曲家、民謡研究家。群馬県伊勢崎市出身。東京美術大学校卒。NHKの前身である東京放送局の開局と同時に邦楽の番組編成に携わる。その後、全国の民謡採集の旅を始め40年間にわたり民謡研究をする。「ちやきりぶし」をはじめ、故郷の「からりこ節」や「伊勢崎小唄」などを作曲。幼名を英(はなぶさ)といい、15才の時に嘉章(よしあき)に戸籍を変え本名とした。74才の時に雅号「佳聲(かしょう)」を贈られ筆名とし晩年はこの名前を用いた。93才で逝去。

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